子供の病気
なるべく明るく楽しく毎日を過ごしたい私です。おかげさまでそれなりに割と思い描いている様な楽しい毎日を過ごすことが出来ています。
とはいえたまには人間なので頭に血がのぼる事もありますけど(笑)
子供の病気と障害の事は開始して一年が過ぎてなお、なんとか毎日更新を続けたこのブログでもほとんど触れた事がなかった気がします。というか意図的に書くことを避けてきたのかもしれません。
本当のところ実は心の整理がいまだについていないのかもしれません。そろそろ10年が経過するので少しだけ勇気を振り絞って息子が生まれた頃の記憶に触れてみようと思います。
うちの息子は今年の誕生日で10歳になります。結婚してからなかなか子宝に恵まれなかった私達夫婦がついに授かった念願の子です。
生まれた年は東日本大震災があった年なのでオムツが品薄になったり、飲料水が品薄になったり(ミネラルウォーターが入手出来なくなってウォーターサーバーを頼んだりした)して色々大変でした。
今でもつい先日の事の様に感じます。
新生児脳梗塞
息子は生まれてすぐに脳梗塞の疑いがあると診断されました。
左脳側が脳梗塞の疑いがあるとの事でした。新生児脳梗塞という病気です。
なぜうちの子だけがそんな病気になってしまったのか?
医師に宣告されて眼の前が真っ暗になり頭がハンマーで殴られてグラグラしている様な、、、なんだか吐き気もして立っているのもやっとだった記憶があります。今思い出してもあの日はそれまでの人生で一番辛い日だった気がします。
その後、すぐに地域で一番大きな病院への転院が決まりました。
息子はケースに入ったままストレッチャーに乗せられてベルトで固定され「イチ・ニイ・サン」という掛け声で救急車に乗せられていきました。
妻は息子を出産したばかりでまだ入院中たったので私だけ救急車の後ろを自分の自家用車で運転してついていきました。
すべて夢であって欲しいとそんな事をひたすら思っていた記憶があります。
しばらくすると(地域で一番大きな)病院に到着、NICUという新生児集中治療室で次に息子を見たときにはさまざまなチューブとか針とか機械が身体のあちこちに接続された状態でした。
親になったばっかりだった私はその状況をなんとか頭で理解しようとするものの理解が追いつかず胸が張り裂けそうになり、泣き出してしまいそうな思いを押し殺して医師の説明を独りで聞いたのを覚えています。
うちの子以外にもNICUにはとても小さく生まれた子供達が多く入院していました。
息子が入院していたところに近い場所で、面会に来ていた他の子供のお母さんが「ごめんね」と朝から晩まで子供に言いながら泣き続けていたシーンが今も脳裏に焼き付いています。
今まで経験して当たり前だと思っていた何気ない日常生活は全然当たり前の事ではなかったんだとそこではじめて痛感しました。
医師の説明が終わり、一旦自宅へ戻る車の中でついに涙が抑えられず泣き出しながら運転していたのを覚えています。
医師の説明
「左脳の広範囲で脳梗塞が起きている」
「脳の中心部も損傷している」
「どこまで拡大するかわかりません」
「ラジカットという薬を使います」
今かろうじて覚えているのはそんな言葉たち。
入院している妻と電話で連絡を取っていて「どんな感じ?大丈夫だった?」と聞かれても上手く状況を伝えられませんでした。
言葉が上手く出ず、我慢していた涙が溢れて止まりません。それでもなんとか気力を振り絞って冷静に振る舞い「大丈夫な感じだったよ」みたいな事を悟られない様に電話で伝えた気がします。
当時は新生児脳梗塞の情報はネット上にもほとんどありませんでした。時間があれば数少ない情報を求めてウェブでずっと検索をしている自分がいました。
ウェブは万能で欲しい情報が何でもそこにありそうな気がしてしまいますが、実は本当に自分が欲しい情報というのはなかなか存在しないものだとそこではじめて痛感しました。(この辺の事情はだいぶ改善したと思いますが、肝心な部分については、たぶん今でもそうだと思います)
脳梗塞の収束とCT
その後、数日が経過してなんとか脳梗塞も無事に収まってきた頃、医師から再度説明を受けました。
CTに写っている左脳のほとんどの部分が他の部分と明らかに色が変わって見えた事もあり、CT画像を見ながら「この部分は今後どんな感じになるのでしょう?」と医師に聞いてみました。
私は脳梗塞が収まれば普通の脳の部分に戻ると思っていました。今思えば全然知識が足りていませんでした。
「その部分は水というか何も無い部分になりました。今後もそのままになります」と医師の言葉にガツンと頭を殴られた様な強い衝撃を受けました。
ノックダウン寸前の状況でも気力を振り絞り「片方の脳に障害があっても、もう片方の脳だけで代償して普通に生活が出来ている人もいるとネットで見たりしていたので、うちの息子にもその可能性が残っていないでしょうか?」と聞いてみました。
医師の回答では「息子さんの場合、脳の中心部分と左脳の大半が損傷しているので残念ながらそういう可能性はかなり低いと思います」との事でした。
医師の説明はなんとか小さい希望を見つけようとあがく親の気持ちを知ってか知らずか望みの綱をどんどんぶった斬ってきます。
でも厳しい言葉で最悪の状況を親として覚悟したからこその今があるのかもしれません。※実際にNICUやリハビリ入院をしていた同期の子の大半が医師の説明通りの経過になっている様ではあります。
退院したその後も首がなかなか座らないことを医師に相談すると
「正直言って一生首が座らない可能性もかなりあります」
などと冷酷に厳しいことばかり言われてましたが、なんだかそういう言葉にもだんだん慣れて耐性がつくようになりました。
その後、無事に首は座りましたが、退院してからも息子の視線は一箇所を見つめ左右に動かない状況でした。
なんというか基本的に訴えかけたものに反応がない状況でした。医師の説明では目も見えているか耳も聞こえているかわからないみたいな説明だった気がします。
どうなるか先が見えない暗闇の中での毎日はなかなか辛いものがありました。
普通の生活は無理としてもせめて意思疎通ができるくらいにはならないものかと当時毎日思っていました。
赤いボールを動かすと視線が動く(かもしれないと聞いて)買ってきた赤いボールを何回も何回も目の前で動かしましたが、全く息子は視線を動かしませんでした。
表現出来ない気持ちにたびたび襲われ、将来の不安もあり父親になりたての私は一人になるとよくひっそり涙を流していました。
予想外の回復と成長
諦めずにその後も何度も繰り返しているとふと赤いボールを視線が追うようになりました。ふいに笑って見えるときもだんだん出てきました。
その後徐々に確実にしっかりボールを目線が追うようになりました。
うちの息子の場合、医師の言葉に反して意思疎通が出来るようになりました。
その後も普通の生活が送れる状況を少しずつ少しずつ獲得する事が出来ました。
右脳で代償が効いたのか左脳の大半がやられているにも関わらず、ついに言葉も3歳頃(つたないながら)喋れるようになり、歩いたりなんと走ったりする事も出来るようになりました。
今では煩いくらいによく喋り笑顔が多い男の子になりました。ただ右半身の不具合は今でも残っています(特に右手はほとんど握力が無い状態)
でも装具をつけていないときは見た目や喋った感じで障害がある事がわからないとよく言われます。
幼稚園の運動会で一生懸命に走る息子を見て不覚にも涙が出ました。ビリだったけど全然大丈夫!
息子の場合、脳のダメージの大きさ(左脳のほとんどを喪失している)とその後の(見た目的には普通に見える)成長過程の回復状況が反比例していてかなり珍しいケースらしいです。
研究の為もあるのかもしれませんが大きなリハビリ病院で優先して診てもらえたりしたのも幸せだったのかもしれません。
息子は健常な子に比べれば成長が遅いところも多々ありますが、それでも九九も覚えて計算もできるようになったり漢字で名前も書けるようになり最近はローマ字のアルファベットを覚えました。その成長具合は親からすればまさに奇跡の連続です。
今は片手で家の中でプラスチックのバットを振り回して野球ごっこを良くやっています。プロ野球スピリッツという野球ゲームも大好きです(笑)
正直ちょっと甘やかして育ててしまっているなという気持ちも多々あります。
小さい頃は言うことを全く聞きませんでしたが、なんだか最近言うことも良く聞くやたらと良い子になってきました。
それでもたまにワガママ言ってきたりするので、反応してこちらも怒ったりする毎日を過ごしています。
先日、右半身(脚と手の関節)を診てもらう為、紹介状を書いてもらって自宅から60キロ離れた大きな病院でボトックス注射の診察をしてもらいました。注射を打つと半年位関節が柔らかくなるみたいで年2回くらい処置をするらしいです。
来月、腕と脚に処置をしてもらう予定です。
自分で立って歩いたり、喋って笑顔でやりとりが出来るという事自体が相当な奇跡の上に成立しているんだという事をいつも忘れずに感謝して日々を楽しく過ごしていこうと思います。